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武田徳三郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

新聞記者から政界へ

武田 徳三郎 (たけだ とくさぶろう)

生年1872 没年1950

中野に生まれる

武田徳三郎は、1872年(明治5年)2月中野村(現大島区中野)に生まれました。父 良治は村長を20数年務め、郡会議員、県会議員を歴任しました。また、大島醸造会社を設立し、銘酒「日本一」の生産は遠く信州方面にも知られていました。

新聞記者として活躍

徳三郎は慶応義塾を卒業後、福岡日々新聞、日本新聞で新聞記者として勤務しました。
1907年(明治40年)7月、上越日報が発刊されると主幹となり、巻頭には彼の発刊の辞が掲載されました。翌年、高田日報と改題後も東城の名で筆をふるい、のちに社長を務めました。

衆議院議員になる

1920年(大正9年)5月、徳三郎は衆議院議員に初当選し、次回を除いて1928年(昭和3年)から1937年(昭和12年)まで連続6回当選しました。国会における徳三郎の雄弁さは有名で、一時は暴漢から狙われて身を隠すほどでした。また、議員では群を抜く読書家で、英字新聞を読んで海外の事情にも精通していました。また、この頃主な役職として、第七十九議会の全院委員長、1927年(昭和2年)の田中義一内閣の農林大臣秘書官を務めています。

上越西線の実現をめざす

1935年(昭和10年)から1939年(昭和14年)にかけて、上越西線建設の請願が衆議院で数回行われました。この路線は直江津―高田―中頸城―東頸城―中魚沼―南魚沼―上越線六日町駅を結ぶ計画でした。徳三郎は芳澤謙吉、増田義一ら同郷の議員に支援を求め、1938年(昭和13年)の議会にこの計画を建議し全会一致で可決されました。これにより同年度内の鉄道省政務次官の実地踏査、翌年の同省主任技師の視察が予定されましたが、残念ながら鉄道計画は戦争の激化により中止となりました。後年、東頸城地域に鉄道の敷設を推進した徳三郎は、1950年(昭和25年)5月、78歳で亡くなりました。

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