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竹越與三郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

筆を持った政治家

竹越 與三郎(たけごし よさぶろう)

生年1865 没年1950

漢学・西洋文明を学ぶ

竹越與三郎は、1865年(慶応元年)に父の出稼ぎ先である埼玉県本庄町(現本庄市)で、柿崎村(現柿崎区の一部)清野(きよの)家の次男として生まれました。幼少期を柿崎村で過ごした與三郎は、早くから漢学を学ぶなどその才を発揮し、小学校の課程が終了した後、兄 清野迂策の薦めもあって1880年(明治13年)に上京、福澤諭吉の慶應義塾で英語やキリスト教、西洋文明などを学びました。また、この頃叔父である竹越藤平の養子となり、竹越與三郎となっています。

言論人として、政治家として

與三郎は慶應義塾中退後、福澤諭吉に認められ「時事新報」発行に協力、また、宗教・哲学・思想の著書を出版したほか「六合雑誌」に寄稿するなど、言論人としての土台をこの頃築いています。
その後、数多くの執筆活動で政治に関心を寄せた與三郎は政界入りし、1900年(明治35年)に行われた第七回衆議院選挙に見事初当選しました。以後、1915年(大正4年)に落選し政界を引退するまでの5期13年間、教育・軍備・経済問題などに取り組み、頻繁に意見を新聞紙上に発表しています。
また、與三郎は、本野一郎や池田成彬と日本経済史編纂会を興し、1920年(大正9年)に5年の歳月と心血を注ぎ込んだ、全8巻5600ページにものぼる大作「日本経済史」の刊行につなげ、 日本経済史学確立の礎石となったのです 。

死ぬまで筆を休めず

與三郎は、政界引退後も大阪毎日・東京日日新聞客員として活躍したほか、「日本の自画像」「倭寇記」「新日本史」などを次々と著しています。明治維新後の揺れる時代から昭和初頭まで、政治家としてだけでなく、文明批評家・歴史家としてもその名を馳せ、死ぬまでその筆を休めることのなかった與三郎でしたが、多くの著作を残す中、1950年(昭和25年)にその長い生涯を閉じ、筆を置くことになったのです。
残された著作は海外を中心に高い評価を受け、死後50年以上経過した今日に至っても、イギリスの出版社から1930年(昭和5年)に出版された「日本経済史」の英訳本を再出版する依頼が寄せられています。

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