ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

富永孝太郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

産業組合の設立に尽力した

富永 孝太郎 (とみなが こうたろう)

生年1866 没年1945

米国留学で農業を学ぶ

富永孝太郎は、1866年(慶応2年)神田村(現三和区神田)原山に3代目仙八の長男として生まれました。富永家は代々仙八を襲名し、曽祖父の初代仙八は江戸から大名や武士が訪れる名眼科医、2代目仙八は竹村と号した南画家、 3代目の仙八は石油開発等の事業家として有名でした。1889年(明治22年)、孝太郎は米国イリノイ大学農学部に留学し、帰郷後は新しい農業技術の普及と生産性の向上に取り組みました。

信用組合を設立する

1900年(明治33年)、中産階級を対象に資金を融通し生産性の向上をはかる産業組合法が公布されました。1906年(明治39年)、孝太郎は地元の美守村に至誠信用組合を設立し、産業組合の必要性を頸城各地に説き、1911年(明治44年)には上越信用組合連合会を設立して初代会長になりました。さらに、1921年(大正10年)には新潟県信用連合会の設立に尽力し、その後会長として20年間、県内の産業組合事業を推進したほか、農業倉庫、医療保険の各組合、農村医療病院の創設運動に大きく貢献しました。
なお、孝太郎は産業組合事業への貢献が認められ、推薦されて1920年(大正9年)から2期にわたり衆議院議員を務めます。この間に産業組合中央会設立にも参画しました。

ブドウ酒の販売を手がける

1903年(明治36年)には、孝太郎は日本葡萄酒株式会社を創立しています。この会社は妻イトの兄川上善兵衛が開いた岩の原葡萄園のワインを全国に販売する会社でした。本店は高田に置き、支店を東京神田旅籠町に出しました。残念ながら、日露戦争期の好景気が過ぎると売上げが伸びず、1909年(明治42年)に営業を休止しました。
孝太郎は1945年(昭和20年)に78歳でなくなりましたが、彼の農村医療向上への業績を顕彰して、1963年(昭和38年)に上越病院敷地(旧敷地)に胸像が建立されました。

関連ページ