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富永忠司

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

新潟医科大学長を務めた

富永 忠司 (とみなが ちゅうじ)

生年1879 没年1945

江戸時代以来の名家に生まれる

1879年(明治12年)富永忠司は、美守村神田(現三和区神田)の富永仙八の次男として生まれました。富永家は代々眼科医であり、かつ和歌や漢詩・紀行などの文学に優れた業績を残した家としても知られています。また忠司の兄孝太郎は、産業組合や上越病院の設立を行い、上越の産業の近代化に貢献しています。

医師をめざして

その後忠司は、東京帝国大学医科、さらに同大学院を卒業しました。卒業後、1909年(明治42年)に当時日本の占領下にあった朝鮮にわたり、朝鮮総督府医院に勤め、1913年(大正2年)にはドイツ留学を果たしています。その後は、新潟県に戻り、1917年(大正6年)には新潟医学専門学校教授に、さらに新潟医科大学教授に就任しました(いずれも新潟大学医学部の前身)。
糖尿病の研究などに業績があり、厳格な努力家であると同時に温情家だったとされ、周囲の人々や学生たちに尊敬されていました。

新潟医科大学長から開業医へ

1922年(大正11年)には再びドイツへ留学。1931年(昭和6年)には第三代新潟医科大学長を務め、名誉教授になります。大学に勤めた期間は数多くの後進の指導に努めました。1936年7月の退職まで5年あまりの在任でした。退職の理由は、新潟市白山浦1丁目に内科医院を開業するためでした。開業した内科医院にも、その尊敬される人柄から多くの患者が訪れたと言われます。また新潟医科大学は戦後、新潟大学医学部の発足母体となりました。
1945年(昭和20年)6月14日、忠司は惜しまれながら亡くなりました。68歳でした。
忠司の弟・修三郎もまた医学博士であり、高田市本町3丁目に小児科内科の長澤医院を開業しています。孝太郎・忠司・修三郎の富永家の三兄弟は、それぞれの立場から、地域医療の発展に貢献したのでした。

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