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漆間與三郎

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

中郷村の名誉村民第一号

漆間 與三郎 (うるま よさぶろう)

生年1875 没年1958

中郷村長として活躍する

漆間與三郎は1875年(明治8年)、8月與三吉の長男として、福崎新田村(現中郷区福崎新田)に生まれました。藩政時代の漆間家は庄屋の家柄で、父も村長として 1899年(明治32年)から13年間村政に尽くしました。
1912年(大正元年)、與三郎は父を引き継いで第4代目の中郷村長に就任し、村の財政安定に力を注いだほか、あわせて教育の振興、村是の確立などに取り組みました。

日本電気亜鉛ニ本木工場を誘致

第一次世界大戦が始まると亜鉛価格の高騰がおこり、関川水系の電力に恵まれた中郷村に1917年(大正6年)、日本電気亜鉛株式会社二本木工場が設立されました。この工場の誘致には村長の與三郎が、村会議員の宮尾孝哉、越後電気とともに尽力しました。翌年、同社は日本電炉工業株式会社と改称後、隣接地に設立された日本曹達株式会社に1926年(大正15年)合併されました。

公害問題に取り組む

1918年(大正7年)、日本電気亜鉛株式会社二本木工場の煙毒に始まる公害問題は、日本曹達株式会社による各種公害とともに、1943年(昭和18年)まで地元側と補償をめぐり争われました。煙毒による農作物の損害補償は、1918年(大正7年)、1923年(大正12年)に行われ、村長の與三郎が立会人となり、日本電炉工業株式会社と日本曹達株式会社を相手に協定覚書が取り交わされました。 1938年(昭和13年)には煙毒問題が新井町、矢代村に拡大し、汚毒水排水の鉄管埋設問題や渇水による工場用水の取水問題がおこりました。與三郎は農会長として村内の補償交渉に立会い、1940年(昭和15年)には煙毒問題に関する補償協定書が交わされました。
與三郎は1958年(昭和33年)7月に中郷村名誉村民第1号となり、翌8月に82歳で亡くなりました。

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