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山田あき

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

現代歌人協会の女性初の名誉会員

山田 あき (やまだ あき)

生年1900 没年1996

下保倉村の村松家に生まれる

1900年(明治33年)1月 山田あき(本名・坪野つい)は、下保倉村大字菱田(現浦川原区菱田)で村松茂三郎とイツの五女として生まれました。下保倉小学校で学び、1915年(大正4年)高田高等女学校(現高田北城高等学校)を卒業後上京しました。短歌創作を開始した時期は不明ですが、ともに早稲田大学に学んだ与謝野晶子門下の兄 正治(苦行林)と窪田空穂門下の弟 英治からの影響を受けたと考えられます。

プロレタリア歌人同盟に参加する

1929年(昭和4年)、あきは「プロレタリア歌人同盟」に参加、同人の坪野哲久と2年後結婚しました。
1932年(昭和7年)、思想統制による厳しい弾圧を受けて、同同盟は解散となります。夫も病に倒れますが「鍛冶」の創刊に参加し、戦時下の弾圧にも屈せず焼鳥の屋台を引くなど生活を支えました。

反戦平和の政治闘争に力を注ぐ

戦後のあきは1946年(昭和21年)2月「人民短歌」に参加、プロレタリア短歌運動の復活をめざしました。また、1953年(昭和28年)米軍砲弾試射場の内灘町反対闘争、1956年(昭和31年)砂川基地反対 闘争、1960年(昭和35年)日米安保反対闘争などの反戦平和の政治運動に取り組みました。

多くの優れた歌集を発表する

あきの歌集は1951年(昭和26年)「紺」、1968年(昭和43年)「飛泉」、1973年(昭和48年)「流花泉」、1977年(昭和52年)「山河無限」などがあります。その歌風は日々の労働や生活を女性の繊細な感性で詠んでいるとの高い評価を受け、女性初の現代歌人協会の名誉会員に推挙されました。
晩年は季刊「氷河」の編集に携わり、1996年(平成8年)96歳で亡くなりました。故郷の菱田にはあきの歌碑が建立されています。

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