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芳澤謙吉

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

戦争の時代を外交手腕で乗り越えた

芳澤 謙吉 (よしざわ けんきち)

生年1874 没年1965

外交官を目指して

芳澤謙吉は、1874年(明治7年)諏訪村堀之内(現上越市諏訪)の地主の家に生まれました。第五中学区高田学校(後高田中学校、現県立高田高等学校)を経て上京。東京英語学校などを経て東京帝国大学へ入学しました。 1899年(明治32年)外務省に入省、外交官としての長い人生を歩み始めたのでした。
上海赴任中は、日露戦争に向かって緊張を高めつつあった大陸外交の重要問題解決のために奔走しています。その後ロンドン駐英大使館へ一等書記官として赴任する直前、当時国会議員だった犬養毅の長女操(みさお)と結婚しています。
2度のロンドン赴任ののち、諸外国による外圧と内乱とによってさらに緊張度を増す中国の北京公使館へ赴任し、政務局長・北京公使などを歴任することになります。

外務大臣芳澤謙吉誕生

1931年(昭和6年)、満州事変が勃発。国際連盟理事会出席中だった謙吉はその抗弁に苦慮しました。時代は軍部の台頭によって次第に戦時色を強めていました。その年の暮れ、犬養内閣発足にあたって謙吉は外務大臣に就任し、さらに厳しい政局にあたっていくことになるのです。翌年には軍部の独断によって満州国が独立。5月15日、軍部の拡大を心配していた犬養首相は海軍の青年将校にピストルで撃たれて命を落としました。

太平洋戦争の終結と中華大使

犬養内閣の総辞職に伴って、謙吉もまた外務大臣を辞職します。その後は貴族院議員となり、日中戦争から太平洋戦争へと戦線が膨張するなか、外交の専門家としてオランダやフランスなどと困難な交渉に当たったのでした。終戦時には枢密顧問官を務め、戦後は公職追放となりましたが、1952年(昭和27年)にはその優れた外交能力を請われて、初代中華大使に任命され台湾に赴きます。 1956年(昭和31年)にその職も辞し、58年間にもわたった外交官人生にピリオドを打ったのでした。

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