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レルヒが上越に来た理由

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年4月20日更新

 レルヒは、1911年(明治44年)1月5日から翌年の1月24日まで上越高田の陸軍第13師団に配属されました。約1年間、上越にいたことになります。その後は、北海道の旭川に配属されました。
 レルヒのほかにも、日本軍の視察のために世界各国の軍人が来日していましたが、大都市や外国との交流が盛んな日本東海岸を視察先に希望しました。なぜレルヒは、上越や旭川のような豪雪地帯に配属されたのでしょうか。
 その理由は、レルヒ自身の希望があったためです。スキーに特別な情熱をもっていたスキーヤーレルヒは、2組のスキーを持って上越にやってきました。日本の雪を体験したい、という気持ちがあったのでしょうか。

長岡外史とレルヒ(写真)
長岡外史とレルヒ

日本スキー発祥の立役者:レルヒと長岡外史

テオドール・エドラー・フォン・レルヒ(1869年~1945年)

 オーストリア・ハンガリー帝国の軍人で、軍事視察のために来日。
 オーストリア式スキーの創始者マティアス・ツダルスキーの弟子。
 上越に滞在中、スキー指導をおこなう。その指導は熱心で、親切・丁寧であったという。帰国後も上越の人々との交流は続いた。
 スキーだけでなく、スケート・フェンシング・乗馬も得意だった。
 登山も好み、米山・南葉山・妙高山にも登った。

長岡 外史(1856年~1933年)

 レルヒが来日した当時、高田に配置されていた陸軍第13師団の師団長。ヨーロッパを視察したときにスキーを知り、軍だけでなく、日本国民の冬のスポーツとしてスキーを導入することが大切だと考えていた。
 レルヒの母国語(ドイツ語)を話すことができる。
 スキー普及のほかに、日本の航空の発展にも力をそそぎ、民間航空の父といわれる。
 長いヒゲがトレードマーク。