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中村十作

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

宮古島の現人神

中村十作(なかむらじゅうさく)

生年1867 没年1943

十作誕生

中村十作は、1867年(慶応3年)、稲増村(現板倉区稲増)の庄屋家の7番目の子どもとして生まれました。徴兵による軍隊経験中に真珠養殖について興味を持ち、除隊後、東京専門学校を経てオーストラリアに渡り、真珠養殖の技術を学びました。

宮古島に渡る

1892年(明治25年)11月、沖縄県宮古島に渡った十作は真珠養殖に取り掛かりましたが、すぐに当時の宮古島の人々が置かれた状況に深い同情と強い憤りを感じることになります。それは、宮古島の古い特権支配階級の人々が課す「人頭税」によって、本土の人々に比べ、極端に貧しい生活を強いられる島の人々の暮らしを知ったからでした。「人頭税」は、就労の有無、また収入の多寡とは無関係に、宮古島や八重山諸島で数え15歳から50歳の人々全員に一律に一般の税とは別に課される過重な税でした。この税はもっぱら島の特権支配階級である一部の人々を養うためだけに課されるもので、国の政策や国税とはまったく無関係でしたが、宮古島や八重山諸島でこの税が課されていることを沖縄県は黙認していたのです。

「人頭税」廃止のために

人々の苦労を十作は見逃せませんでした。宮古島へ来てわずか1か月後、さらに翌年8月の2度にわたって、十作は那覇出身の製糖技師城間正安(ぐすくませいあん)や、宮古島の西里蒲(にしいさとかま)、 平良真牛(たいらもうし)らとともに、沖縄県に対して「名子」という隷属制度と「人頭税」廃止の要望書を提出。しかし、特権支配階級の猛反発の前に県知事も十分な対応はできず、事態は混乱を極めるばかりでした。
十作らは、国会に請願することを決めて上京し、同郷の増田義一や実弟十一郎ら多くの人々の協力を得て国会への請願に成功します。1903年(明治36年)になってようやく「人頭税」が廃止されることになりました。
十作はその後も真珠養殖を続けましたが、1943年(昭和18年)に胃がんのため死去。宮古島の人々は今でも、十作を「大和神御嶽(やまとぅんがんうたき)」として祀っています。一方、十作の生地である板倉区稲増には記念館と記念碑が建ち、十作の業績をたたえています。

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