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太田孫次右衛門

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

地方財界の発展に尽くした

太田 孫次右衛門 (おおた まごじえもん)

生年1852 没年1911

衆議院議員になる

太田孫次右衛門は1852年(嘉永5年)1月27日美守村(現三和区)大字錦で生まれました。太田家は江戸時代に大庄屋役を勤め、苗字帯刀を許され、維新後は戸長役を勤めた地元の名家でした。
1889年(明治22年)、町村制施行によって美守村ができたとき、孫次右衛門は初代村長になりました。その後、1894年(明治27年)から4年間、衆議院議員に選出されました。人格円満にして識見高く正義感の強い彼は、改進党に所属して活発な政治活動を行いました。地元では大きな課題となっていた郷津湾の築港問題と信越線の直江津駅から新潟方面への延長問題に取り組み、実現にむけた両期成会の委員をつとめました。また、中央では明治期を代表する政治家の大隈重信を盛り立て早稲田大学の創設に参画しました。
孫次右衛門は衆議院議員を2期務めましたが、その後は政界から退き、地元財界の発展に専念します。

知命堂病院の創設に尽力

1871年(明治4年)、高田の医師瀬尾玄弘は四の辻(現西城町3)の自宅で「知命堂」を開業しました。孫次右衛門は地域医療向上にむけた総合病院設立をめざす瀬尾に積極的な支援を行い、1891年(明治24年)、内科・外科・産婦人科・眼科から成る「知命堂病院」の創設に尽力しました。
さらに、孫次右衛門は病院の前に別宅を設けて、百三十九銀行(のちの第四銀行)の創設ならびに経営にかかわり、長期にわたり頭取を務めました。また、孫次右衛門は妙高市赤倉付近に土地を所有していたことから、地元の人々と連携して温泉の開発を行いました。
晩年の孫次右衛門は結核を患い、神奈川県国府津で療養しましたが、1911年(明治44年)に60歳で亡くなりました。

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