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榊原政令の改革

印刷用ページを表示する 掲載日:2016年1月27日更新

  文化7年(1810年)、榊原家11代 政令(まさのり)が高田藩主となりました。政令は在封17年(~文政10年(1827年))で家督を譲りましたが、隠居後も次の政養(まさきよ)・政恒(まさつね)の2代34年間、実際の政務をとっていました。
 この時期、徹底した倹約を行うことによって、財政事情はしだいに好転していきました。榊原家代々の藩主は、学問を重んじてきましたが、政令もまた学問を好み、江戸で有名であった山本北山や太田綿城などについて儒学を学びました。政令の学問の奨励もあって、家臣のなかから中島嘉春・大久保鷲山(しゅうざん)ら多くの儒者を出しました。
 また、妙高山麓に温泉が湧出することは早くから知られていましたが、文化11年(1814年)、政令は藩の主導で開発を進め、同13年(1816年)9月、湯元から45町(4,900m)の引き湯工事が完了し、2か所の共同浴場が完成し、翌14年(1817年)、高田の商人らに温泉宿の建設を請け負わせ、ようやく湯治客を受け入れられるようになり、現在の赤倉温泉となりました。