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東洋越陳人

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

今も愛される頸城の文人画家

東洋 越陳人 (とうよう えっちんじん)

生年1836 没年1916

天童・郡平

東洋越陳人は本名を服部郡平といい、1836年(天保7年)に頸城郡野村(現三和区野)で農家の次男として生まれました。子どものころから近くの寺子屋に通い、漢学に明るかったほか、絵を描くことが得意でした。神社の祭りで提灯に絵を描くなど、その才能は周囲の大人を驚かせました。大人たちは郡平のことを天童と呼んだと言います。

修行・放浪の時代

郡平は20歳になったころ、医学を志して長崎へ旅立ちました。ところが郡平は医師にはならず、長崎三画人の一人で禅宗の僧侶 だった鉄翁祖門に弟子入りし、絵を学ぶことになります。郡平が30歳になろう かというころ、鉄翁は郡平に「越陳人」の号を与えました。これを機に画人として独立を果たした越陳人でしたが、その生活は苦しく、あんまや傘作りをして暮らしたと伝えられています。そして諸国を放浪しながら絵の勉強をする時代が始まりました。
1877年(明治10年)、越陳人は突然の帰郷を果たしました。20年あまりの修行と放浪生活も終わりを告げることになります。天童と呼ばれた少年もすでに40歳を過ぎていました。

東洋越陳人

故郷にもどった越陳人は、新潟や北陸地方を旅しながら絵を描きました。1882年(明治15年)には、越陳人は新潟県から推薦されて、全国絵画共進会に代表作「苗名滝」ほか2点を出品し、明治天皇による天覧の名誉を受けました。越陳人の名声はひときわ高くなり、全国に名を知られる画家になりましたが、越陳人自身は変わらず上越地方を中心にあちらこちらと旅をしながら画作にふける毎日を暮らしていました。1886年(明治19年)には、直江津五智にようやく居を構え終の棲家とします。
その日の暮らしに困るほどの貧窮の中に身を置きながらも自由を選び、好きな酒を飲みながら、頼まれて絵を描く人生を送った越陳人は、1916年(大正5年)、80歳で亡くなりました。墓が五智の光源寺に築かれています。飾らない人柄と数多く残された絵が今でも根強いファンの心をつかんでいます。

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