ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

横尾義智

印刷用ページを表示する 掲載日:2021年12月1日更新

全国初のろうあ村長

横尾 義智 (よこお よしとも)

生年1893 没年1963

行野に生まれる

横尾義智は、1893年(明治26年)行野村(現安塚区行野)の大地主であった横尾義周とサトの長男に生まれました。生来、義智には「聞こえない」「話せない」のハンディがありましたが、両親はできる限りの教育を身につけさせました。 1903年(明治36年)、義智は官立東京聾唖学校尋常科(現・筑波大学付属聾学校)に入学、1910年(明治43年)に図工科を卒業しましたが、その後も岸浪柳渓に師事して絵を学びました。

塩崎里子と結婚する

1915年(大正4年)3月、義智は父の死去により家督を相続し、翌年5月には安塚銀行創業の発起人 塩崎貞佐久の四女 里子と結婚しました。里子は指話術(現在の手話)を学び、夫との意思疎通に努め義智の活躍を生涯支えました。

小黒村信用組合をつくる

1920年(大正9年)7月、義智は小黒村長の滝沢義親らと小黒信用購買販売利用組合を設立しました。この組織は村内農家の経済的安定を図り、農業倉庫を作り米の自主管理を行いました。義智は組合長として、制度が変わり農業協同組合になるまで、29年間在職しました。

小黒村長として活躍する

1934年(昭和9年)2月、義智は全国初の聾唖村長となりました。同年の大凶作に対しては、備蓄米19トンの放出、さらに県庁への陳情により政府米の貸与を受けました。救農土木事業では小黒川護岸工事などを県に申請、村独自では村道改修工事に着手するなど成果をあげました。以後、12年間の任期中村民の救済に全力を注ぎました。
また、義智は昭和初期から日本聾唖協会の専務理事として、全国をまわり就職面の差別、待遇改善に努めました。戦後も福祉事業の向上に数々の功績を残し、1963年(昭和38年)、69歳で亡くなりました。
現在、生誕の地には地元住民により横尾義智記念館が作られ、彼の偉業が顕彰されています。